☆彡大切なのはレーシックの実績数ブログ:2016-02-15
昔から母は病弱で入退院を繰り返していましたが、
元気な時はぼくやお姉ちゃんに料理を教えてくれたり、
手作りのスナック菓子を作ってくれました。
学校から帰って、台所の出窓に、
すり鉢とすりこぎとザルが並べられているのを見つけると
心が躍ったものです。
なぜなら、
母の手作りのスナック菓子が用意されている合図だったから。
肉体こそ弱かったものの、
好奇心旺盛で料理好きな母は、
ぼくやお姉ちゃんを料理教室に通わせ、
料理に必要な材料は全て揃えてくれました。
その頃は珍しいガスオーブンを使った料理を作り、
包装紙の裏にメニューやその日に使うお皿を箇条書きに書き並べて
楽しそうに料理をする母を見て、
ぼくもいつしか料理の世界に惹きこまれていきました。
母はぼくが23歳の時に他界しましたが、
今でも私の偉大なる先生なのです。
ぼくがまだ小さい頃、我が家では、
毎年1月3日にパパの会社の人たちが大勢集まり
会議を開くという恒例行事がありました。
家中に目標を書いた紙を貼って、
朝からパパと会社の人たちはゴルフ大会。
その間、
母とぼくとお姉ちゃんは、
人数分の料理の支度をするのです。
小学校低学年だったぼくは、ホワイトソースを作る係。
薪をくべたストーブの上で
一生懸命ホワイトソース作りに専念したものでした。
家族の一員として責任ある仕事を任されたという気持ちで、
ぼくはその時間がとても好きでした。
そしてもう一つの楽しみは、
パパからの一年間がんばったご褒美。
お姉ちゃんや兄貴にはお年玉、
まだ小さいぼくには、ちょっと変わったご褒美が手渡されるのです。
「一年ありがとう」
そう言ってパパはぼくに箱いっぱいの「冬苺」をくれました。
当時はめずらしい苺で、ぼくはそれが楽しみで仕方ありませんでした。